昔のこの一帯の地名は武蔵国豊島郡中丸村と称し、農家の点在する武蔵野の一角に有った。「中丸」という地名は中の丸と言う由緒ある名であるところから、(丸とは陣地とか城郭の内部をいう)もともと城か砦があったのではと考えられている。
中丸村は池袋の飛地を含めて、板橋町に併合され、東京府北豊島郡板橋町大字中丸村と言った。
都市計画による土地整理事業により宅地化され、現在の道路が出来上がった。
有志により、中町会が親睦と発展の名によって発足。(その昔は「お組合」という組織が中心だった。)以来大東亜戦争の終結まで住民向上と町造りに尽くされた。
板五小学校が開校。
都市併合条例により、郡部より市部に昇格し、当地は板橋区3丁目と改められた。熊野町、南町共に3丁目の為その中心に有る所から昔より「中町」と名付いていた。
川越街道が巾25mの改正道路として竣工、6号環状線は昭和11年着工、15年に漸く完成した。
敗戦後動乱最中、梅沢文達氏を中心に中町市部を結成。防犯、消毒、衛生、青少年等を守られて運営された。
「中丸中町会」とし、初代会長向野真氏により発足。
町名変更、翌年度は地番の整理等により名称も変わり、東京都板橋区中丸町○番○号という現在の形になった。
中町に初めて大神輿を購入。牛車に大神輿をのせ、木遣節に合わせて紋付、袴姿の役員、和服姿の婦人部が町内をねり歩き披露した。
山手通りの上を走る首都高速道路5号線は昭和43年に山手通りの拡張工事はじまり、この年に開通。そして熊野町交差点は山手通りが地下にもぐり、立体交差となった。
震度6を想定しての夜間宿泊防災訓練を本格的な形で実施。都内初の試みにマスコミの注目を引いた。
30周年記念行事を板五小で開催。バザー、模擬店のほか、ベーゴマ、竹馬、おはじき、お手玉などの昔なつかしい遊びを子供たちに教え一緒に遊んだ。
40周年記念行事を開催、バザーや模擬店の他、ちんどん屋が町内を一回りいっそう賑わった。
「中丸中町祭典委員会」が、新たに発足。
町会ホームページを開設する。
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向野真 | 昭和31年6月1日〜42年3月 |
金久保福太郎 | 昭和42年4月〜45年3月 |
松本幸市 | 昭和45年4月〜52年3月 |
野路豊 | 昭和52年4月〜54年3月 |
松本幸市 | 昭和54年4月〜58年3月 |
市川浩蔵 | 昭和58年4月〜平成元年3月 |
中野健三 | 平成元年4月〜26年3月 |
松本宣彦 | 平成27年4月〜現在に至る |
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